★ ぼくをさがして ★
<オープニング>

 暦の上では春、とはいっても、こうして頬に突き刺さるような寒風を浴びていると、麗らかなる季節はまだ随分遠いと感じるものだ。陽が落ちれば殊更で、小野寺 美代(おのでら・みよ)は腕時計にちらりと視線を走らせながら、一層歩く速度を速めた。
 学校帰りにカフェ『スキャンダル』の限定スイーツを味わいつつ、友人等とのおしゃべりに没頭してしまった。挙句、気付けばもう、こんな時間になっていたというわけである。
 人気のない児童公園を突っ切れば、もう自宅までは目と鼻の先だ。多少不気味ではあっても、回り道をするより大分早い。
 公園を通り抜けようとした時、美代は暗がりに気配を感じた。目を凝らすと、外灯の明かりが届くか否かの辺り、少年が蹲っている。このような時間に子供が1人で出歩いているなど、尋常ではない。しかも、啜り泣いているとあらば、尚の事である。
「僕、どうしたの?」
 迷子だろうかと思いつつ、美代はそっと声を掛けた。
「うっ……うぅっ……。み、見付からない……見付からないの……」
 顔を伏せたまま、華奢な肩を震わせる少年の姿は痛々しく、みすぼらしい捨て犬を連想させる。
「探し物? それなら、一緒に探しましょうか?」
「無駄だよ……。ずっと探しているのに、見付からないんだもん……」
「あら、諦めては駄目よ。だから、泣かないで。ね?」
 努めて明るい声音で振舞う美代の願いが届いたか。少年の嗚咽がぴたりと止む。
「うん、分かった。僕、もう泣かないよ」
 だが、安堵したのも束の間。突然、立ち上がった少年の細く青白い右手が伸びて、美代の手首を掴んだ。その力たるや、年相応のものではない。よくよく見れば、風に揺れる左の長袖がべっとりと紅に染まっている。片腕がない代わりに、そこから鮮血が滴っていたのだ。
 背筋に走った悪寒が警告する。「逃げろ」と。けれども、時は既に遅く、体の自由が利かない。
 ごとり、と音を立てて、何かが美代の足元に転がる。それは紛うことなき少年の首であった。
「それじゃあ、お姉さんの左腕をちょうだい……」
 目玉の抜け落ちた虚空の瞳が、美代を見上げてけたけた笑う。ずっと欲しかった玩具を漸く手に入れたとでもいうように、無邪気に。
 残酷に。
 首のない隻腕の体が、少女に迫る――。

「先日、とある児童公園にて、女子高生が少年に襲われるという事件が発生しました」
 手元の資料を確認しながら、対策課の植村 直紀(うえむら・なおき)は集った者達に切り出した。
 偶然、通り掛った近所の男性数名が被害者の悲鳴を聞き、駆け付けたお陰で大事には至らなかったらしいが、問題はその後。
「何でも、少年は闇に溶けるようにして、消えてしまったそうなんです」
 しかも、その少年、奇妙なことに首と胴、そして左腕が切り離された状態であるにも関わらず、平然としていたのだという。
「彼等の話を参考に調べてみた所、少年はどうやらオカルト映画『怨霊公園』から実体化したようですね」
 映画の内容は、こうである。
 小さな街で9歳の少年がバラバラ殺人の被害に遭うという惨たらしい事件が起こる。遺体の捜索は難航し、結果、どうしても左腕だけが見付からなかった。非業の死を遂げた少年の魂はあの世へ旅立つことも出来ぬまま、夜な夜な殺害現場となった公園を彷徨うのだ。失った片腕を求めて。
「ヴィランズと呼ぶには、あまりにも気の毒な人物ではあります。しかし、だからといって無関係な方々を巻き込んでも良いという理由にはなりません」
 状況を看過していれば、確実に被害者は増える。
 沈痛な面持ちの植村は、溜息混じりに一同を見回した。
「皆さんには、この少年の魂を救っていただきたいのです。方法はお任せしますが、彼には他の霊を呼び寄せる能力があるようです。念のため、装備は整えて行くべきでしょう」
 どうか宜しくお願い致します、と植村は静かに頭を下げるのであった。

種別名シナリオ 管理番号942
クリエイターあさみ六華(wtbv7387)
クリエイターコメント お久し振りとなりました。あさみ六華です。
 今回の舞台は、とある児童公園。
 どうか彷徨える少年霊を成仏させてあげて下さい。

 補足として。
 OPの通り、相手との戦闘は十分に有り得ます。プレイングはその辺もご考慮下さい。
 なお、『霊』とは申しましても、少年には実体があります故、直接触れることは可能です。また、スターですので、ファングッズも有効です。

 その他、PC様の想いや熱い台詞等ありましたら、お書き添えいただければと思います。

 それでは、ご参加お待ちしております。

参加者
ファレル・クロス(czcs1395) ムービースター 男 21歳 特殊能力者
ゼグノリア・アリラチリフ(cshh6181) ムービースター 女 26歳 赦されぬ子を産んだ女
十狼(cemp1875) ムービースター 男 30歳 刀冴の守役、戦闘狂
コレット・アイロニー(cdcn5103) ムービーファン 女 18歳 綺羅星学園大学生
チェスター・シェフィールド(cdhp3993) ムービースター 男 14歳 魔物狩り
<ノベル>

●すべてをかくすくらやみ
 月のない夜であった。
 雪こそ舞い落ちてはいないものの、吐く息は白く、夜闇を色濃く染めては溶け果てる。雲の切れ間から顔を覗かせ、冴え冴えと瞬く星達の銀色は凛とした寒気にこそ良く似合う、と十狼(じゅうろう)は心中で独りごちた。
 今回の事件において、故郷でならば命より大切な『主』に不都合さえなければ、まず捨て置いただろうが、ここでは違う。彼は少し甘くなったし、同時に僅か柔らかくもなった。それは自身を取り巻く環境と、そして何より支えてくれる人々の存在が十二分に関係しているということは想像に難くない。
 だからこそ、十狼は幼い少年が苦しんだままでいるのを看過出来なかったのである。
「あんま大人の目の行かないような場所も探さないといけないよな。植え込みとか、物陰とか。木の上……は、ないよなぁ」
 先程から公園内をちょこまかと軽快に動き回るは、チェスター・シェフィールド。彼は極度の寒がりで、コートやマフラー、手袋の着用がこの時期のデフォルトなのだが、万が一にも失われた腕がここに実体化していれば、と淡い期待と希望を抱いて、捜索に当たっていた。しかし、
「うーん、やっぱ見付からないか……」
 殺害場所と死体遺棄現場が同じとは限らない。まして、作中の公園がハザードとして現れているならば兎も角、ここはごく一般的な児童公園。せめて例の映画を前以て視聴していたなら、事件の手掛かりが掴めたのかもしれないが。
 言い知れぬ歯痒さに唇をきつく噛む。項垂れると、セミショートの黒髪がさらりと零れ、意思の強そうな瞳を隠した。それを十狼のエスコートで夜の散歩と洒落込んでいたゼグノリア・アリラチリフが、身篭った腹を無意識に撫でながら、目を細めて笑む。
「そう急ぐこともあるまい。夜はまだ、長いからのう」
 だが、結果はどうあれ、努力を惜しまぬ姿勢は賢明以外の何ものでもないと言を紡げば、チェスターはほんのり頬を染める。体を冷やさぬようにと纏ったゼグノリアの品良い柄のストール、その夜風に揺れる裾へと慌てて視線を逸らしたのは、彼なりの照れ隠しか。
「悲しい話ね。怪談か何かだったら、良かったんだけど……これは、本当にここで起こっていることだから……」
 表情を曇らせるコレット・アイロニーの斜め後に控えたファレル・クロスは、気だるげな様子で首を傾げて見せる。
「私としては、無理に成仏などさせなくても良いと思いますよ。人さえ襲わなければ、少し風変わりな子供として銀幕市でやっていけるのではないですか?」
「そう……かもしれない。でもね、何にせよ、小さい子にこんな想いをさせておいてはいけないわ。早く、解放してあげなくちゃ」
 憂いが零れてしまう前に、長い睫毛を瞬かせるコレットを一瞥し、ファレルは深い深い息を吐いた。
 今宵は、随分と冷え込みそうである。

●もがくほどにしめつけるくさり
 きぃ……、きぃ……、きぃ……
 油切れの金属が擦れ合う耳障りな音が、夜のしじまを裂いた。
 くすんだ水色のペンキが所々剥がれ、錆び付いたブランコが風に揺れている。否、幼い男の子が腰を下ろして漕いでいるのであった。その所作はどうしようもなく無力で、微かな泣き声は憐憫さに一層の拍車を掛ける。
 彼こそ、件の映画より実体化し、この地を彷徨っているという少年であろう。
「もう日も暮れたというのに、どうしたのじゃ?」
 ゼグノリアの声音は酷く穏やかで優麗そのものであった。
 美しい漆黒の髪の間から天に向かって伸びる一対の血色の角に、背には青緑の皮膜の翼、臀部からスペード型の尾が生えている彼女は、容姿こそ恐ろしい悪魔に酷似したものであるが、にも関わらず見る者全てに柔和な印象を与えるのは、不変の慈愛に満ち満ちているからなのだろう。
 口を開けば齎される心揺さ振る旋律は、澄んだ水面(みなも)が如く深く緩やかに波紋を広げる。少年もまた、例外ではなかったらしい。右手で顔を覆ったまま、嗚咽交じりながらも、素直に答えた。
「う……、うぅっ……見付からないの……。腕……、僕の腕がなくなっちゃったんだよぅ……」
 その通り、左腕がない代わりに、肩口を中心に朱の染みが上着に広がっていた。強い鉄の臭いが、鼻を突く。
 何と惨い光景であることか。ゼグノリアが苦悩に眉を寄せたのは、体の欠損を恐れてのことではない。少年の不憫な心中を察してであった。口にこそ出しはせぬものの、きりりと締め付けられる胸の痛みで、ともすれば呼吸すら困難になってしまいそうだ。
「泣くのはおやめ」
 言って、小さな肩にストールを羽織らせる。無論、寒さが心身の痛みに勝っているなどとは断じて思えなかったが、そうせずにはいられなかった。
 こうなると、不慣れな温もりに驚いたのは少年で、もしかすると、この一時だけは悲しみを忘れることが出来たのかもしれない。
 不意に上げた顔は、あるべき所に目玉がなく、ぽっかりと開いた虚無の双眸が濁った影を眼窩に落としていた。青白い頬を血の涙で濡らした貌は、胆の小さな者であったならば、地獄から這い出した悪鬼と紛い、卒倒したことだろう。
 しかし、ゼグノリア自身はたじろぐことも、また悲鳴を漏らすこともない。そのような行動を示す理由が見出せなかった。ただただ、慈愛の眼差しが向けられている。
「あなたは、僕が怖くはないの? 僕の姿を見た人は皆、怖がって逃げて行ったのに」
 信じられないといった様子で、ゆるゆると首を横に振る少年へ、ゼグノリアの大輪の花が如き、柔らかな笑みが絶やされることはなかった。
「愛しいと思うことあれど、怖いなどとあるものか」
 子供とは本来、愛されるべき存在。愛を注がれるべき存在なのだから。
 涙を拭いてやると、少年は益々困惑の色を濃厚にする。
「私はゼグノリア。坊やの名前は?」
 尋ねれば物憂げに顎を引き、俯くのは、確かにあったはずのものを思い出せないかららしい。少年は、一同が思うより随分と多くを失ってしまっていた。引き換えに、小さなその身に重過ぎる事実を背負って。
 長い沈黙に麗しい睫毛を伏せるゼグノリア。そうして、再び少年を覗き込むように切り出した。
「……『ヨウ』。『陽』とは、如何じゃ?」
 常冬の凍土に僅かでも良い、陽光が差すように。
 込められた想いが気取られた様子はない。ただ「陽」「陽」、と何度も小声で繰り返していたが、やがて嬉しいような、気恥ずかしいような様子ながらも、ゼグノリアへの謝意は唇を引き攣らせて見せるに留まった。
 長らく負の感情に侵食され続けてきた陽少年にとって、今、胸の奥底に生じつつある微熱は、懐古の温もりというだけでなく、畏怖の対象でもあるのだ。ともすればあっさりと消し去ってしまいそうで、触れられないでいる。彼もまた、痛ましい姿形となった所で、中身は普通の子供と何ら変わらない。であるとするならば、臆病な心は己を不幸に陥れ、彼是と良からぬ妄想を掻き立てるものだが、救う術が潰えたわけではない。
 子の乱れた髪を手櫛で梳いてやりながら、ゼグノリアが思考を巡らしていると、コレットが遠慮がちに進み出て、陽の前にしゃがみ込んだ。目線を同じ高さに合わせた所で、そっと囁く。
「あなたは、残酷な事件で左腕をなくしちゃったけど……でも、そのことでずっと悲しんでいるあなたを見るのは、私達も悲しいし……きっと、ご両親も悲しんでいると思うの」
 それまでゼグノリアの成すがままにされていた少年は、「両親」という単語が出た途端、目を見開いて、びくりと肩を跳ね上がらせた。
「パパ……ママ……。会いたい、会いたいよ……」
 再び、声を上げて泣きじゃくりそうになる陽の背中を優しく摩りながら、コレットは過去の自分を重ねて見ていた。もっとも、彼女の場合は孤児となる以前、実の両親に耐え難いまでの仕打ちを受けていたこともあり、思慕の念とはまた異質な感情を抱いていたのだが、助けを求め、彷徨う姿は彼でありながら、正に幼き日のコレットでもあるのだった。
 目前に救える魂があるならば、如何様にしてでも救いたい。だから、多少の無理もしてしまう。
「私の左腕、あげるから、少しだけ私と一緒に遊んでくれないかな。サッカーや鬼ごっこだったら、両手を使わずに遊べるでしょう? ほら、ちゃんとボールも用意して来たのよ」
 少年が公園で事件に巻き込まれたのならば、元々は遊ぶために訪れていたはずである。楽しい思い出を作って上げたい。コレットはその一心であった。
 いそいそとサッカーボールを差し出す彼女へ、目を剥いたのはチェスターで、
「ちょ、ちょい待った!」
 慌てて2人の間に割って入る。
「何つーか……ホント、やりきれねぇ事件って感じだよな、これ。俺だってこいつの歳で死にたくないし。もっと楽しいことだって経験出来たはずなんだよな……」
 神妙な面持ちで陽を見下ろす眼差しからは、同じ辛苦を共有出来ぬ苛立たしさがありありと滲み出ていた。
 自分達は、『偶々』あちら側の人間ではなかった。『偶々』ヴィランズという枠より外側にいただけのことだ。スターが作り上げられた存在であることは、あの少年と同じ。それなのに、苦衷を察することは出来ても、理解の領域までは到達出来ないでいる。
 では、狂おしい程の記憶の全てが人為的なものならば、他人が踏み均した道を辿って来ただけの過去にこれ程まで苦しめられるのは何故だろう。零れ落ちる涙すら、偽物なのだろうか。
 胸を駆け上がる怒りと悲しみと虚しさの衝動を吐き切ることをも出来ず、こうして喘いでいるというのに。
 そのようなもどかしさの中にありながら、彼もまた、譲れない信念を紡ぐ。
「でもさ、あんたの腕をやっても本当の解決にはならないぜ、絶対。自分の腕じゃねぇんだから。それに、本物でないのを誤魔化してるわけだし」
 勿論、身代わりにチェスター自身の腕をやるなど、御免蒙りたい。
 元来、うじうじするのは性に合わないチェスターである。不慣れな言動からか、額に玉の汗すら浮かべて説得に当たる彼に、良い案だと思ったんだけど、とコレットは納得し兼ねる色を浮かべつつも、チェスターに同調したファレルの物言わせぬ眼差しに圧倒されてその場を退いた。
 確かに出立前、植村は言ったはずだ。少年の魂を救って欲しい、と。その台詞に「『己が犠牲』という代価を払ってでも」といった意味合いが含まれていたとは、到底思えない。つまり、チェスター少年の言い分「本当の解決にはならない」は適格に的を突いているといえよう。
 では、『本当の解決』とは、一体どういうことだろう。何を以って魂を救うといえるだろう。
 子供の望むがままに玩具を与えることだろうか。
 決して傷付くことなきようにと、鍵の掛かる頑丈な籠に閉じ込めておくことだろうか。
 自分達が正しいと信じるものに、果たしてこの少年が同じ念を抱くのか、コレットもチェスターも、分からなくなってしまった。
 声を詰まらせる2名へ代わり、
「腕が、欲しいか」
 十狼の問いに陽がこくりと頷けば、そうか、と呆気ない程の相槌が打たれた。
 純粋に、単純に、愚直に少年がそう願って止まないのであれば、そして幸福になれるのであれば、彼に迷いは一切なかった。
 左側の袖を捲し上げると、武人らしく鍛え上げられた腕が露になる。そこを右手で押さえ付けると、何と思い切り捻り上げた。
 ぶちぶちと筋の切れる音、続いて骨の折れる鈍い音が生々しい余韻を引いて響く。肉が裂かれた後から、紅いものが噴き出しぶち撒かれ、視界を汚した。
 惨たらしい行いが、十狼によって繰り広げられて行く。
 短い悲鳴を上げながら両手で口を覆うコレットを庇うように、ファレルが肩を抱き寄せた。
 周囲が大量の鮮血で溢れ返った時には、既に十狼が肉塊――つい先程まで彼の左腕であったもの――を抱えていた。体の一部を失ったことへの苦痛は頓着ないのか、その所為が妙に無造作で、傍の者には現実味を帯びていないようにも見えた。
 しかし、これは夢幻ではない。自身であれ、他者であれ、また程度の如何に関わらず傷付けるという行為は、残虐な現実を刻み付けるもの。
 沈黙の内に事の次第を見守るゼグノリアとは対照的に、最も気の毒であったのは、チェスターで、その証拠に、これ以上ないといわんばかりの驚愕を満面に浮かべていた。今し方、コレットの無謀な行為を押し留めたばかりなのに、自分の腕をもぎ取るなど、正気の沙汰ではない。開いた口が塞がらないとは、正にこれ。ただただ、猛烈な抗議の目……というか、もう殆ど涙目を十狼へ向ける。
 当の十狼は彼を一瞥すると、迷走気味の想いの全てを仄かな笑みのみで答えた。思惑あってのことなのだろう。
 そして、
「これで貴殿が満たされるのであれば、望むがままに……」
 差し出された腕から零れる血が、十狼の掌から肘を伝い、ぼたぼたと大地に染みを描く。
 あれ程欲しがっていたものが、目の前にある。それなのに、陽の伸ばした指先は酷く震えていた。腕を受け取る所か、足元に取り落としてしまったのである。
 びちゃり、と血液が跳ねて、少年の薄汚れたジーンズに付着した。
 途端、抗えぬ紅い記憶が強引に目を覚ます。
「あ……あぁ……っ!」
 呻き声が、やけに遠くで聞こえた。
 それが自ら発したものであることさえ、少年は気付かない。

 幸せになりたいと、願った。
 失ったものを補えたなら、もう一度、蒼穹を仰ぎ見、彩る日溜りの下に身を置けるだろうと思っていた。
 それなのに、願えば願う程、おぞましい魔物が現れて、追い駆けて来る。そいつは獲物を捕らえると、自由が利かないように縛り上げて、もがき泣き叫ぶ姿を眺めては、上機嫌で喉を鳴らすのだ。
 ――苦シメ、苦シメ。ドコマデモ、墜チテ行ケ。

 どうして?
 どうして?
 僕だけが、どうして……? 

「……あぁ、やだ、やだよぅ……。止、めて……お願いだから止めて! 痛い、痛い痛い痛いよぉ! 僕を殺さないで!! 殺さないでぇっ!!」
 喉元に爪を食い込ませてブランコから転がり落ちると、激しくのた打ち回った。このか細い体のどこにこれだけのものが潜んでいたのかと訝りたくなる程の苦しみが、絶叫となって大気を震えさせた。
 十狼の一連の行動が引き金となって、殺された時のことを思い出したのだろう。フラッシュバックに身を捩り続けた。
「どう、し、て……?」
 あの青年の腕さえ手に入れれば、この苦しみから解放されるはずだったのに。なのに、今はこんなにも、心が痛い。
「それは、貴殿が真にこの末路を望んでいないが故だ」
 だから何も満たされぬのだ、と十狼が言を結んだところで、陽には狂った猛獣の如く咆哮を上げる他なかった。それを認めてしまえば、今まで疑うことすら知らずに抱き続けてきた信念が、全て崩れ去ってしまうではないか。
「違う……違う! 違うんだよぉぉっ!!」
 必死に頭を横に振るも、彼自身、もはや何に対して血反吐を吐く程否定したいのか、理解していないのかもしれない。
 けれども、十狼は知っている。少年が真実必要とし、また渇望しているものは、腕でも誰かの犠牲でもないということを。
「嫌だ、嫌だ……死にたくない……」
「だが、貴殿は既に常世の者ではないのだ」
「や、だ……嫌だよ……」
 喘ぎに混じった弱々しい声が、色のない口から漏れて来る。
 生きることに対して貪欲な年頃だ。健全な子供であれば、それは当然の無意識下の欲望であったが、だからこそ少年が哀れでならなかった。
「僕は、悪い子だから殺されちゃったの? だから、ずっと苦しまなくちゃならないの?」
 仰向けに倒れたまま、陽は込み上げて来るものが零れてしまわぬようにと、潤む視線を空へ投げていた。約束したのだ、ゼグノリアと。だから、泣かない。
 十狼は眼光を緩めると、少年を抱き起こし、労わる。
「貴殿には何の責も咎もない。しかし、同じ苦痛を他者に与えた所で、欲しいものは返って来ぬのだ」
 一言一言、やんわりと諭す。
 この地点で既に彼のもぎ取られた左腕は、まるで何事もなかったかのように再生していた。純血の天人は物質のみで出来ているわけではないので、その肉体の一部が失われると、世界や精霊たちが寄り集って癒してくれるのである。ちなみにこの時、チェスターがちょっぴり大袈裟な位に胸を撫で下ろしていたのは、いうまでもない。
「現に目を向けるのだ。その上で、貴殿が何を想い、何を望むのか。さすれば、成すべき事柄も自ずと見えてこよう」
 真っ直ぐな銀色の瞳に秘められた熱いものに、少年の心は大きく揺れた。
 信じられるに値する想いであるならば、少しだけ、ほんの少しだけ、触れてみようか。
 惑う少年に、動じぬ青年。2人を見遣って、ゼグノリアが含み笑いとも取れるような軽い溜息を漏らす。
「主君が関わらねば、このような無茶はせぬ御仁と見受けておったがのう」
 彼らは共通の人物を介して、互いの存在を知り得ていた。だからこそ、十狼の一挙一動がいちいち興味深いのか、はたまた心底面白がっているのか。冗談めいた口振りだけでは判別付かない女性へ、十狼も艶やかな笑みで返す。
「お目汚し、失礼仕る」
「見苦しいなど、まさか。益々気に入ったと言うておるのじゃ」
 そなたの主はほんに果報者よ、とゼグノリアが顔を綻ばせると、十狼は無言で一礼して見せた。
 少々、荒療治が過ぎた感は否めないが、如何にも武人らしいといえば、その通りだろう。知らぬ間に足を踏み外し、自力で這い上がれない位傷付いてしまったのなら、手を引き、導いてやれば良いのだ。何度でも。
「我々は味方なのじゃよ」
「……味方……。あなたが……、あなた達が……?」
 強く乞い、夢にまで見たものが、すぐそこに在る。
 とても近くて、でも手を伸ばすには勇気が足りない。だから、そっと背を押して欲しいと呟くのは、自分勝手過ぎるだろうか。
「それは、僕の傍にいてくれるってこと?」
 おそるおそる吐露された心情に重なって、溜息が聞こえた。
「困ったものですね……」
 それまで遣り取りを眺めていたファレルが、詰まらなさそうに肩を竦める。
 説得に応じるかと思えば、駄々を捏ねる。幼少の頃より、感情表現の自由を許されなかった彼にとって、その行為は些か理解に欠けるものではあったかもしれない。
 もしもファレル自身に、現在とは異なる位置付けが成されていたなら、慰めの言葉の1つでも掛けられたのだろう。
 心の奥底にそのような秘めたものがあったかは兎も角として、ぽつりと、口をついて出た言葉。
「全く子供というのは扱い辛い……」
 深閑の公園に、それは驚く程響いた。
 決して他意があったわけではない。陽を傷付けるつもりも。だが、悲哀の淵に佇む者には、ファレルの心理まで慮る余裕はない。また、ファレルの台詞を聞き捨てる程度に、陽は成長していなかった。
「駄目! そんなこと言っては駄目よ、ファレルさん!」
 コレットの悲痛な叫びがファレルに届くよりも早く、少年は伸ばした手を引っ込めていた。ゼグノリアのショールが肩から滑り落ちる。しかし、彼は気に留める所か、気付いてすらいない様子だった。
 掴みかけていた一粒の光が、輝きを失い、跡形もなく闇に溶ける。
 標を失った迷い子は、混沌を彷徨うのみだ。今まで通りに。
「やっぱり、僕は……あなた達の元へは行けない」
 陽はファレルの瞳を避けるように、顔を背けた。拒んでいるというよりも、寧ろ恐れを抱いている。ここまで、他人を全く省みる余裕のなかったが故の恐怖。故意でないとはいえ、そうありたいと願う感情が結果的にファレルの胸中を蔑ろにしてしまったこと、それが堪らなく怖かった。
「僕は、望んではいけないから……」
「そんなことは……」
「来ないで!」
 駆け寄ろうとするコレットを、鋭く撥ね付け後退する。死者の領域に生者が踏み入ってはならないと忠告するように。でないと、一瞬でも自分を受け入れてくれた人々を、傷付けてしまう。

 幼く我が侭で、孤独で、人一倍に寂しがりな少年は、ただ愛し愛されたいと願っていた。愛しい人達と笑って、泣いて、寄り添っていけたなら。どこにでも転がっているような、しかし、どこにもなかった普通の幸せを欲していた。
 それが、彼の探していた本当の望み。
 けれど希望を抱くことはおろか、在ることをも赦されないのであれば、全てを終わらせてしまおう。これ以上、悲しみを生み出さないためにも。

 ごう、という突風にも似た地鳴りに次いで、視界が激しく揺らぐ。地震であれば随分と規模の大きいものであろうと、十狼は咄嗟にゼグノリアを庇う。身を伏せ、首を巡らせたが、周囲の立ち並ぶ家々にも、また住民にも特に変わった様子はない。つまりは、不幸中の幸いとでもいうべきか、この一角だけに起きている現象なのだ。
 外灯が幾度か点滅すると、鈍い音を立てて弾けた。星は暗雲に遮られ、夜の澄んだ闇とは比べるべくもない凝ったそれが、地の底から幾つも姿を現す。一言で表すならば、『無』。喜怒哀楽はおろか、希望も絶望すらなき故の『無』。生きることも、成仏することも出来ずにいる、もはや如何なる術を尽くしても救うことは出来ぬであろう虚無に塗れた死者達の成れの果て。既に人型ですらないそれは、陽を同化すべく小さな体に纏わり付いた。少年は顔を歪めるも、抗う素振りは一切見せない。
 道は、もう交わらないのだろうか。

●ひかりうしなわれたせかいで
 ゼグノリアという女性は、何人をも許容し、受け入れる精神を持ち、欠点も長所も全て認め受け入れ、絶対なる愛を以って包み込む事が出来る人物である。言わば母性の人だ。
 少年に攻撃的な態度を取られ、ゼグノリアが傷付いたとしても、彼女から陽を傷付けることはない。しかし、陽が自ら消滅しようとしているのを傍観する行為は、寛容ではなくて、単なる愚行である。
 唇を引き結ぶと、ゼグノリアの手中に金色(こんじき)の炎が煌いた。それを軽い仕草で空へ放ったなら、無数に散らばって辺りを照らし出す。逢う魔が時を連想させる公園の情景が、そこに浮かび上がった。

 気味の悪い冷気が、肌を刺す。異常なまでの気温の下がり具合に、
「くっそ。まるで冷凍庫にでも、ぶち込まれたみてーだな」
 今なら冷凍食品の気持ちがスゲェ分かるかも、などとチェスターは場違いな思考を頭の片隅に追い遣ると、ホルスターから素早く銃を引き抜いた。悴んだ人差し指が、トリガーをぴたりと押さえる。気を抜けば、文字通り体中の血が凍ってしまいそうだ。
 チェスターの、少年への想いは届かなくても構わない。でも、自分自身で存在を否定してしまったら、お仕舞いだと思う。そんな遣り切れない気持ちのままで逝ってしまうのは、悲し過ぎる。かといって、無理矢理消してしまうなど、論外だ。
「……あーあ、こんなんじゃ、家に帰ってから小言を言われそうだ」
 親しい者の顔を思い浮かべ、ま、いいか、と溜息交じりに零す。
 闇の塊は陽に巻き付き、魂を奪わんと気味悪く蠢いていたが、魔物狩りを名乗るチェスターとて、少年を傷付けない位には、銃の扱いに長けているつもりだ。
「あんまし気は進まねぇけど……」
 戦場での迷いは、命取りだ。僅かな判断の遅れで、事態は如何様にも転じるもの。
 放たれた銃弾が、ゼグノリアの光源も手伝って、狙い通りの対象物を貫く。
 塊が分散し、死霊が仰け反った――かに見えたが、それも一瞬で、すぐに元と変わらぬ形状を保った。のみならず、千切れたもう一方の闇も集結すると、今度はチェスターの命を摘み取らんと襲い掛かる。
「……おいおい、マジかよ」
 攻撃すればするだけ、奴等は増殖するのだ。
 つまり、粉微塵になる位の、といってはやや大袈裟かもしれないが、増殖が不可能になる程の大ダメージを与えられなければ、敵は何度でも立ち上がる。こちらの体力を悪戯に削ってしまわぬためにも、首尾良く立ち回る必要があるだろう。
 仕方ない。
 億劫そうに舌打ちすると、彼は両掌を前方に差し出した。
 生まれ出づるは淡い光の揺らめき。
 炎のエレメントの加護を受けるチェスターの火炎弾が、勢い良く飛び出して、夜闇に軌跡を描く。眼前の死霊の群れに突っ込むと、荒れ狂う魔炎となって天空を舐め上げた。

「きゃあぁぁっ!」
 闇は止め処なく湧き上がり、コレットの足首を絡め取った。
 戦闘能力など、ましてファングッズさえ持たぬ彼女を拘束することは、容易い。多勢に無勢でなかったとしても、それは火を見るより明らかである。死霊らに知能があったなら、そう確信したであろう。尤も、その確信は直ぐに崩れ去ることになるのだが。
 轟音は閃光を伴って、無数の死霊を裂いた。
 ファレルの加減ない稲妻が、縦横無尽に走る。
「どうか、僕の傍を離れないでいて下さい」
 でないと、貴女を十分に守れる自信がありませんから、と早口で括ってコレットを庇護するように立ちはだかると、周辺に電気分子で作り上げた防御壁を展開する。
 コレットにそれなりの安全が確立された所で、ファレルの冷めた瞳が、戦場を見回した。その横顔をちらりと垣間見、咄嗟にコレットは悟った。
 彼は、何かを確かめている。

 一転、十狼は至って平静であった。この者から冷静を欠くのは、主君に関わる全ての物事を除けば困難を極めるが、それを抜きにしても無駄な動きは何一つない。攻めるのではなく、あくまで防御に徹する美麗な剣捌きは、流るる水が如し。上等な芸術の極みが、確かに在った。
 但し、一方で死霊の暴走を鎮める方法について、浅く思考を飛ばしていたのも事実だ。何度退けようとも、相手はこの場にいる全員の命を飲み込むまで、蠢動し続けるのだろう。まるでそれが彼らの使命でもあるかのように。加えて、留まる所を知らぬ闇は、幾らでも地底から湧き上がって来た。
 明けない夜は、あまりにも不毛だ。陽の苦しみ哀しみに寄り添い、労わり、慈しむと掲げ誓うなら、この手で終わらせなければなるまい。
 十狼が、地を蹴った。
 気合を刃に乗せて、ぐるりと旋回。唸る大気に荒ぶる獣のような衝撃波が走り、敵を薙ぎ払う。
 死霊らは一瞬にして暗夜に消えた。

 ファレルが物心付いた時には、既に戦場を疾駆していた。戦うことでしか、存在意義を見出せない。感情は二の次で、情けなんて抱いたためしがあっただろうか。だから――特別な存在であるコレットは別として――他人と必要以上に縁を結ぶのは億劫だし、苦手だ。にも関わらず、ファレルは今、陽を救うべく力を振るっている。我ながら、滑稽だと思う。整合性のない行動の理由は、子供らしい自己中心的な陽が、ほんの僅かだけ、羨ましかったからなのだろうか。
 背後のコレットを気にしつつ、在るべき世界へ死霊を屠らんと稲妻を八方へ飛ばす。闇がすっかり焼き尽くされたのを確認してから、前面に視線を投げれば、死霊が集中的に群れている箇所が映った。あの中心に、少年が捕らわれているのだ。纏わり付くものが何倍にも肥大しており、もはや陽の姿は目視しうる場にない。
 制御出来ていないとはいえ、元々、死霊達を呼び出す能力を備えた少年である。彼の心に共鳴し、呼応したが故に這い出てきたのであれば、奴らを消す方法は簡単だ。
 何、少年を痺れさせる程度で良い。殺してしまっては元も子もないのだから。
 十分な間合を詰めると、それまで握っていたコレットの柔らかな手を放した。
「ファレルさん……?」
 訝しげに小首を傾げる彼女には顔を向けず、前方へと意識を集中させる。掲げた右腕が音もなく振り下ろされれば、稲光が陽目掛けて閃いた。
 雷は死霊諸共、少年を穿つ、はずだった。
 僅差でファレルの攻撃を弾いたのは、全長20メートルはあろうかという黒竜。十狼の半身、エルガ・ゾーナである。その竜王に守護される形で、ゼグノリアもまた、陽を守るべく体を張っていた。愛しい我が子を庇う母の姿であった。
「すまぬが退いてもらおう」
 冷たい声が、ファレルの耳元で響く。喉元には剣が鋭利に光っていた。十狼の瞳に宿されたものは更に鋭く強く、不吉な薫りが漂う。コレットなど悲鳴も漏らさず、ただもう顔を青くするばかり。
 十狼は、如何なる事態となろうとも、少年に刃を向けることを潔しとしなかった。救いを求める弱者へのこれ以上の危害は、例え微々たるものでも断罪の苦惨に匹敵する。そうなれば、説得はおろか、信頼すら勝ち得ることなど到底出来はしまい。
 暫しの睨み合いは、そこだけ時が止まったようにも見えて。
「――……」
 ふっと、ファレルが無感情な眼差しを伏せた。構えた腕が、力なく垂れ下がる。良案があるならば託そう、と無言で語っていた。半歩退くファレルを見遣って、十狼は繰り返し謝罪の言葉を口にする。
 身を翻して天人の青年は、陽に向き直った。死霊を滅するのは造作もないことだが、問題は陽が奴等の中心に在ることだ。下手に攻撃を加えれば、少年共々消し飛んでしまいかねない。
 緊迫した事態に、一刻の猶予も許されなかった。
 息を吐く程度の間を置くと、
「十狼よ、そなたは道を切り開いてくれれば良い」
 ゼグノリアの声が飛んだ。彼女の常と変わらぬ金の双眸が語っている。大丈夫だ、と。
 ならば、何を躊躇することがあろうか。十狼は不敵に微笑み、剣の柄を握り締める。信頼の証は二つ返事で返す代わりに、行動で示すのみ。
 吼え猛る黒竜にチェスターの加勢を命じると、自らは二振りの剣、【聖獄】と【晧天】を慣れた手付きで構え直した。
 陽を囲む闇は、彼の殺気を感じ取ったのか。不意に幾十もの触手のような形状を取って、滅茶苦茶に振り回し始めた。獲物を掠め取られてなるものか、といった具合に。
 繰り出されるものは存外に強力で、触手は空を裂き、大地を抉る。鞭の如く撓ったそれは、十分攻撃範囲内にいるゼグノリアの褐色の肌をも打つ。が、寸でで十狼の斬撃が鮮やかに切り落とした。連続して繰り出される巧みな技が、巨大な闇の一部を霧散させる。絶妙な力の抑制により、陽を傷付けることなく、見事ゼグノリアの要望に応えた形だ。
 機を逸することなく、ゼグノリアも動いた。
 身重の体に風を纏い、滑らかな俊敏さで、切り込んだ十狼の背を追う。今し方、ほんの一瞬ではあったが、白い指先が見えた気がしたのである。あそこに、陽がいる。ゼグノリアは闇に身を投じると、力一杯腕を伸ばした。
 途端、膨大な『無』が彼女を縛り上げた。穢れた暗黒の霧が体の奥の奥にまで無理矢理入り込んでくる感覚は、己が何か別のものに意識を乗っ取られていく様であった。
 激しい眩暈と、吐き気が襲う。
 数センチの距離がもどかしい。後少し、もう少し……。
 自我が薄れそうになる中、唐突に耳元で喘ぎに似た声が聞こえた。
「まだ、願いは叶えられていないのでしょう?」
「あなたは独りなんかじゃない。だから、頑張って」
 駆け付けたファレルとコレットが、同じ風に腕を伸ばす。
 今や、戦場内の全ての死霊が陽の元へと集結していた。何もかもを無に帰すべく攻め来る敵の波。
「行かせるかよっ!」
 ゼグノリア達を拘束せんと背後から忍び寄る闇を、弛まぬ業火でチェスターが焼き払う。
 久方振りに炎の力を行使し過ぎたせいで、疲労の色は隠し様のないものとなっていたが、黒竜の援護もあって、気力で大地を踏み締めた。
「何にも解決しねぇまんま、消えちまうんじゃねーぞ!」
 呼び掛けは、自らを奮い立たせるものでもあったのか。
 十狼の掲げた剣が、再び闇を大幅に削り取った。陽の上半身が露になる。
「貴殿の痛みは、我々が受け止めよう」
 願いも望みも、このような結末ではないのならば、
「陽、戻っておいで!」
 ゼグノリアの、コレットの、ファレルの手が、ついに小さな手首を掴んだ。
「戻っておいで。私達の元へ」

 瞳を開ければ、ほら、すぐそこに望んだものはあるはずだから。
 在り続けることに、臆病にならないで。
 繋いだ手を離さないで――。

 少年もまた、弱々しく握り返す。
 それは、彼がようやっと掴んだ想い。
 祈りが、届いた瞬間であった。

●あかつきにそまる
 あれ程まで命を奪うことに躍起になっていた死霊達が、合図でも受け取ったかの如く、ずるずると一斉に地底へ引き返して行く。もはや、この地に未練はないとばかりに、戦いの幕切れは甚だ呆気ない。
 今し方までここが戦場であったことが嘘のように、公園は急速に静けさを取り戻した。
 相変わらず冷たい風が、脱力した体を追い越し、駆け抜けて行く。
 陽は、ゼグノリアの腕の中でぐったりとしていた。最初から血の気のない肌であったが、今はもう、土気色だ。傍らで様子を伺っていたファレルが重い口を開く。
「このままでは、フィルムに戻ってしまうでしょうね」
 ムービースターとしての、本当の意味での死が、迫っている。その要因を作った張本人こそが陽であり、自業自得と指摘されたなら文句は言えまい。それだけのことを仕出かしたのである。けれど、それが世知辛い世の道理と理解していても、心までは枉げられない。我々は意思なき機械ではないのだから。
「そんな……そんなのって、ない……」
 思わず、コレットがくず折れた。熱い雫が、流れて落ちる。
 が、ゼグノリアが冴えた眼差しで一瞥すると、志を断念するのは早かろう、と凛として悲しみを制する。まだ、事は何も終わっていないのだ。
 エルガ・ゾーナを返した十狼もまた、ゼグノリアの傍に跪いて、探るように少年の額に手を当てた。
「魂が欠けているようだが」
 曰く、無に飲まれた際、魂の一部が失われたのであろうとのことであった。顔を強張らせるチェスターに、されども眉一つ動かすことなく、低い声音が届く。
「救う術は、ある」
 短く言葉を括ると、十狼は陽に手を押し付けたまま、呪文を紡いだ。
「【創麗王】第三節『再生光』」
 淡い光が、視界を満たす。
 実体のある、なしに関わらず、深く傷付いた者を元の姿に再生する効果を齎す魔法が、陽の霊体を癒し、また欠如した左腕をも補って、魂の形を整えていく。輝きは、呪文の詠唱を終えた後も陽を柔らかく包み込んでいた。
 各々が何度か少年の名を呼べば、彼は目蓋をそっと持ち上げる。現れたのは、あの眼球のない虚無の双眸ではない。澄んだ瞳に、くっきりとゼグノリアの姿が映った。
「……ずっと、僕を呼んでいてくれたんだね」
「皆が、そう願っておったのじゃよ」
 御伽噺でも語るような口振りは、極上の温もりで溢れている。ゼグノリアを見上げる大きな目が、震えた。
「ったく、心配掛けさせやがって」
 長い吐息を吐き出して、チェスターがへなへなと座り込んだ。張り詰めていた緊張感が緩んだのと、遂にここら辺でスタミナ切れらしい。苦笑いを浮かべながら、髪を掻き揚げる。再び作り出された片腕を、夢心地に見詰めている少年へ自然、文句の一つでも言いたくなるというもの。
 十狼の手を借りて、そろそろと起き上がる陽が、覚束ない足取りで眉を顰めた。
「怒って、いる……?」
「いや。逃げることが罪とは思わねぇよ」
 逃避でしか癒せない痛みとて、きっとあるはずなのだから。
「けど、陽が陽であることを諦めちまったらさ、そん時はここにいる全員、すげぇ悲しいと思うんじゃね?」
 よく分かんねぇけど、と控えめに付け加えると、人差し指で頬を掻いて見せた。

 東雲の空は、まるで上等な染物を広げたように繊細で、仰ぐ者を魅了する。同時に、今日という日程、その光景に恐れを抱いたことがあっただろうか、とコレットは想いを馳せる。目蓋を落とせば、その次には当然のように目は覚めて、新しい一日が始まる。命はいつか費えるものだけれど、それはもっとずっと遠くの未来で、明日が来ないかもしれないなんて恐怖に怯えながらベッドに滑り込む感覚は、歳若い彼女には、些か実感がなかった。これまでは。
 陽とて、それは多分同じであったのだろう。生あったその日まで、まさか他者に寄って命を刈り取られることになるなど、想像すら出来なかったはずだ。まして、齢九つで人生の岐路に立たされようとは。
 黄泉路へと旅立つか。
 魂魄のまま留まるか。
 それとも、
「健全な姿に戻りたいのなら、私が産み直そうぞ」
 そっと少年の髪を撫でながら、ゼグノリアが柔らかに囁いた。
 沈んだ視線が、頼りなげに皆の顔を見回す。しかし、それは誰に委ねることも適わぬもの。強制的に定められた道ではなく、自らが選び取らねばならないものだ。
「焦らず、ゆっくり考えると良い」
 小さな体を不安で更に縮こめる陽へ、十狼が頬を緩める。
 チェスターは少年に掛ける言葉が見付からなかった。どのような想いを告げた所で、気休めにすらならない気がしたのである。出来ることは、震える幼い手を取り、握り締めてやるのみ。ただ、それだけで陽は随分と安堵を滲ませていた。
「あのね、お願いがあるの」
 最後まで傍にいて欲しい、と。
 目を逸らさず見守ってやることが、彼を想う気持ちに変ずるのであるなら。
 ああ、と頷き返せば、掌にほんの少しだけ、力が篭った。

 児童公園をぐるりと囲む形で植わっている桜の木には、既に蕾が芽吹き始めていた。注意して観察しなければ、見落としてしまいそうな程に小さくて硬い。けれど、気が付けばそれは日毎に膨らみを増して花開き、咲き誇っては、知らず知らずの内に薄紅の花弁を散らす。漸く青々とした葉桜になった頃、思い出したように木を見上げ、自分ばかりが置き去りにされたような妙な気分になるのは何故か。実際には、季節が移ろうているだけでなく、人もまた、一時として留まっていないはずなのに。
 何を語るでもなく、少年は桜の蕾を見詰めていた。
 そういえば、春が来る度、家族でささやかな花見をしたような気がする。桜の名所なんて、そんな大層なものではなくて、丁度、こんなこじんまりとした公園で。母が作った弁当を広げて、父と2人、「美味しい、美味しい」と誉めそやしたものだ。
 ただそれだけ。それだけの、当たり前の幸せ。
 映画の中の『作られた現実』とはいえ、陽を形取っている過去が、去来する。
 しかし、もはや隔絶された日常だ。叶わぬ願いならば、せめて……
「僕、もう一度生きたい。幸せになりたい。……ううん、自分の手で幸せを掴みたいって思う」
 無論、生身の体に戻った所で、彼が必ずしも幸福を手に入れるなどという保証は、何もない。時には想いを踏みにじられ、挫かれて自らを見失うこともあろう。けれど、陽は終焉と共にこの地を去るよりも、幾多の困難へ立ち向かうことを望んだのだ。
 ゼグノリアが満足するには十分過ぎる回答が、言葉の隅々にまで込められていた。
「ならば、私と共に……」
 差し出された手は、初めて会った時と寸分違わぬ優しさ。先と異なる部分があるとすれば、陽もまた、しっかりと握り返したことだろう。信頼する者へ全てを委ねるとばかりに、最早迷いは吹っ切れていた。
 十狼が与えた魔法の輝きが、ゼグノリアの力と合わさって、益々強まる。
 一歩踏み出した所で、思い出したようにくるりと向き直った。
「生まれ変わったら、あなた達みたいに、強くなれる?」
 穢れを知らぬ目が、十狼とチェスターを交互に見遣る。強い男というものは、いつの世も、男の子にとって憧れの的なのだ。
「強さとは、そも身の内から自然、滲み出るもの。即ち、心を強く持たれよ」
「よく食べ、よく笑い、よく遊ぶ! これ、強さの鉄則な」
 静と動の正反対の理論に陽は目を丸くしていたが、やがて擽ったそうに瞳を細めると、今度はコレットの服の裾をそっと引く。
「今度逢えたら、一緒にサッカーしようね」
「ええ。約束よ」
 湿った掠れ声で何度も頷くコレット。彼女の肩越しに、一行からやや離れた雲梯の支柱に背を預け、腕組みするファレルへは上目遣いで、若干罰が悪そうに呟いた。
「もっとお話したかったな。そしたら僕達、仲良しになれたと思うんだ」
 分かり合えるには時間が少な過ぎたのだ、きっと。
 ファレルの無表情の顔からは、何も窺い知ることは出来なかったが、ただ伏し目がちに、肩を聳やかして見せた。緩い肯定であると、自分なりに捉えて。それだけで、陽には十分だった。
 光はいよいよ目を開けていられない程の眩さを放つ。もう一度だけ、皆を見回して、ごめんなさい、と囁く。
「それから――……」
 続く言葉はもはや聞き取れなかったが、銘々が唇の動きをなぞる。

 ありがとう。

 姿薄れ行く中で、しかし確かに彼は笑っていた。
 安らかに、たおやかに、軽やかに。
 春の小花が綻ぶように、ふわりと。

 光が、解き放たれる。

 ――キィーン……
 瞬間、混じり気のない水晶を叩き合わせたような、澄んだ音色が響いた。陽の魂が弾けたのである。
 砂粒程に細かな魂の欠片が散らばり、曙に舞う。それは明け方の星々よりも煌いて、世界を満たした。
 ゼグノリアが腕を広げ、生まれたばかりの赤子を抱くように、そっと受け止める。
 欠片もまた、還るべき場所へゆっくりと降り注ぐ。
 朝日がゆっくりと昇り行く中、儀式は粛々と執り行われる。
 長かった夜は、ようやっと明けたのである。

「これで、良かったんだよな」
 眩しそうに天を仰いで、ぽつりと呟くチェスターに、返る答えはない。
 結果的に、陽にとって最良の結末であったかは、誰も分からないのだから。
 ただ、皆に支えられながらも、自らで導き取った未来に対して、彼は心底後悔していなかっただろうし、最後の最後で見せたあの笑顔は、嘘偽りのないものであったはずだ。

 束縛を解かれた少年は重厚な扉の取っ手に手を掛け、開け放ち、翼を広げて飛んで行く。眼下に望む光景は、彼のみぞ知る、また別の物語。
 ならば、その笑みが消えてしまわぬように、せめて祈りを捧げよう。
 君が、幸せであるように。


 小鳥達の囀りは、春待ちの歌にも似て。
 穏やかな祝福を齎す季節は、もうすぐそこまで迫っていた。


End.

クリエイターコメント この度は当シナリオへご参加いただきまして、誠に有り難うございます。

 少年は自らの道を選び取り、歩み出しました。全ては皆様の、彼への想い溢れるプレイングのお陰です。
 また、事柄に寄っては、厳しい判定を出さねばならない部分もありましたが、結果的に紡ぎ上げられた物語は、お1人お1人のプレイングあってこそと思います。ご尽力いただき、誠に有り難うございました。

 最後になりましたが、ここまでお読みいただいた全ての方へ感謝を込めて。
 あさみ六華でした。
公開日時2009-03-12(木) 19:00
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